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ディドロのシャルダン評

放送大学で見た内容を忘れないうちにメモしておこうと思いつつ,放送内容はあっさりと表面をなぞるだけのような感じで,なかなか自分の中にとらえきれない深い内容だった気がする.しかし芸術などと称しても所詮はたかが人間のやっていることなので,少々解釈に間違いがあっても問題なかろうと思うので,またいつものいい加減な記憶をもとになんとなく綴る.



1.ロココ美術の時代

ディドロやシャルダンについて語る前に,18世紀当時の様子について簡単に触れておく.ロココ美術は,教会や王侯貴族の偉大さを象徴するかのような豪壮なバロックに対して,優美な,軽やかな,繊細な美術と言える.そもそも,西洋美術はキリスト教との関係が密接であり,その歴史的経緯にかなり左右されている.これはロマネスク様式→ゴシック様式バロック様式という変遷を経ている教会堂建築様式で見ると大まかな流れがつかみやすいと思うので,まず建築様式について軽く触れておく.


1.1 かなり大雑把な西洋宗教建築の流れ

ロマネスク様式で,タンパン,柱頭彫刻などが登場した.それまでキリスト教では,人間が神の像を創造するなどおこがましいにも程があるということから偶像崇拝が禁じられていたため,キリストや聖母マリア像は殆ど公に出てくることはなかった.しかし,神を単純に偶像にするにはやはり抵抗感があるため,天上の世界を模した彫刻は大きな存在として制作されることになった.

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サント=マドレーヌ大聖堂のタンパン(ティンパヌム - Wikipediaより)

タンパンというのは上の写真のような,建物入口扉の上の三角形またはアーチ状の部分に彫刻が施された壁面である.唯一神を中心に堂々と大きくつくり,その周りには天使や聖人たち,その下にはそれより下位の存在の者たちが配置されている.このように神聖さが大きいものほど物理的にも大きいものとして表現される流れは長らく続く.ついでに言うと天井がアーチ状(かまぼこ状)な構造もロマネスク様式の特徴である.ロマネスクは人間の手の及ばない超越的な世界にこそ価値があるとしたプラトン的な構造であると言える.

続いて登場したゴシック様式では,教会堂の構造はどんどん高みをめざしていく.尖塔アーチで,その高さから天の神の偉大さを強調し,より巨大な建築物となっていった.放送の中では「愚かな意識は物質的なものどもを介して高みを目指す」という言葉を用いてゴシック様式アリストテレス的であると解説されていた.また,ステンドグラスも使用され始めた.ステンドグラスは,単なる明り取りでなく,光を受けてガラス自らが鮮やかに彩る「光る壁」という位置づけであった.ステンドグラスは物質そのものが光るというところからも,ゴシック様式が内在性に重みを置いたアリストテレス的なものであると言える.*1

その次に登場したバロック様式は,ルターの宗教改革で生まれたプロテスタントに対抗するためにカトリック側が取り入れた「対抗宗教改革」的な様式である.建築だけでなく,それまで以上に建築と,建築の中の絵画,建築の中の彫刻が一体的に調和した総合的な建築様式である.有名なものとしてベルニーニの『聖テレジアの法悦』(サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会コルナロ礼拝堂の祭壇),コルトーナの『神の摂理』(バルベリーニ宮殿の天井画)などがある.写真をご覧いただければ,建築・彫刻・絵画が一体となって総合的な芸術作品として成立していることをご確認いただけると思う.

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聖テレジアの法悦 - Wikipediaより

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ピエトロ・ダ・コルトーナ - Wikipediaより

次にここでようやくロココ様式に移る.ロココ様式というのは教会建築のような宗教的なものの延長ではあるが,いかにも超越した神々の世界のようなものを,それ相応に華々しく堂々と大きく描くのではなく,親しみやすさ,華やかさに重点を置いた形式であるように感じる.建築様式としては後期バロックの中の一様式と位置付けられるようであるが,特徴としては非対称な丸みを帯びた装飾,メルヘンチックな構造である.この「理想化された美」とでもいうべきロココの特徴が,絵画においてもよく見られる.


1.2 ロココ美術

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これはブーシェによる『水浴のディアナ』という作品である.「うわっ,出た!裸体だ!変態だ!」と思いそうな気もするが,西洋においては服を着ていない方が神聖なものとして扱われる風潮があったようで,そのため神話に登場する女神ディアナ(手前にいる方)も,狩りを終えて休息しているディアナの横で戯れているニンフ(奥にいる方)も,当然のように裸体で描かれている.この裸体の女性たちが繊細なタッチで描かれ,女性の肉体の優美さ,軽やかな戯れというものを表現し,描かれている.このような繊細な作品が多数生み出されたのがロココ美術の時代である.*2

また,当時は描く対象が宗教的,神話的,哲学的なものほど芸術としての価値が高く,一般市民の様子を描いた風俗画や,人間でないその辺のものを描いた静物画は,相対的に低い評価を下される傾向にあった.これは,描くべき題材をしっかり描ききるだけの教養と,その題材に見合っただけの作品となるかどうかという点が非常に重要視されていたため,知識がなくても誰にでも描けるその辺のリンゴやパンや食器や一般市民といった存在と比べると相対的に価値が低いとみなされていたからである.


2.ディドロ

ディドロは一般的に,ダランベールと共に百科全書を編纂したことで知られているが,批評家として美術界においても大きな影響力を持っていた.このことはルーヴル美術館にディドロの部屋があることからもわかる.美術家でも王族などでもなく,単なる美術批評家の部屋がルーヴルにあるという.

また,ポンパドゥール夫人という人物がいる.彼女は銀行家の娘で平民の身分でありながら,才色兼備でフランス国王ルイ15世の愛妾として,しかも単なる愛妾ではなく,重要な会議に出席するなど,政治面でも重要な役割を担った人物である.

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これはモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールの描いたポンパドゥール夫人の肖像画である.執務室で書物を片手に仕事をしているような風景が描かれているが,注目すべきなのが机の一番右のでかい本が”ENCYCLOPEDIA"=百科全書であるという点である.百科全書派と呼ばれる連中は,当時のキリスト教の側から見ると神の教えを無視するけしからんやつらという印象で,いわば対立関係にあった.実際,ディドロ自身も無神論者である.しかしながら,ルイ15世の愛妾で政治的に重要なポストにいる人物が自室に百科全書を置いている.このことからもディドロの影響力というものが感じられるものと思う.*3

ロココ最盛期,「サロン展」というものが定期的に開催されていた.サロン展には王侯貴族のみならず,一般に広く市民にも開放され,開催の度に街は人の群れでごったがえすし,芸術家たちは競って自分の作品をそこで展示したがった.また,芸術家志望の者はここで質の高い良い作品を鑑賞することで,自らの創作に役立てようとした.今でいうコミケみたいなものか.審査制度があったから抽選で選ばれるコミケとは違うか.まあ,交通機関の整っていない時代にしては,とにかくものすごい人数が訪れる一大イベントであったらしい.ディドロはこのサロン展に出典された作品について,批評を行っている.これが「サロン評」である.

批評を行っている,と言いつつ,その批評文を読めたのは当時は非常に限られた十数名程度であったと言われる.というのも,グリムの『文藝通信』という雑誌に批評文を書いていたのだが,この読者が各国の王侯貴族などの有力者に限られていたからである.各国の有力者はサロン展が開かれているからと言って,長い時間をかけて自国を留守にして芸術作品を鑑賞しに行く暇もさほどないため,ディドロはサロン展でどのような作品が展示されているか非常に細かく記述し,その上で作品について批評を行い,各国の限られた『文藝通信』読者に向けて執筆活動をした.

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これはルイ・ミシェル・ヴァン・ローという人の描いたディドロの肖像である.ディドロ本人はこれを観て「まさに私だ」と自分と似ていることを認めつつも,不満を垂らしていたらしい.どのような不満かというと,どうもかわいらしすぎるということのようである.ロココ的な繊細なタッチで描かれた自身の姿に,批評活動に込める堅い意思のようなものが感じられないのがご不満だったようである.

さて,このディドロによる批評の中で,彼から高く評価を受けた画家としてグルーズやシャルダンがいた.続いてそのうちのシャルダンの作品の幾つかについて見ていく.


3.シャルダンの作品

シャルダンは主に「静物画」で著名になった画家である.先述のとおり,西洋絵画においては歴史画や宗教画などのジャンルが格上で評価が高く,静物画は相対的に評価が低いと見なされがちであった.しかしながら,ディドロはこのシャルダンを大いに評価した.何点か例を列挙していく.


3.1 赤エイ

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シャルダン28歳のときの作品で王立アカデミーの選考作品として応募したものである.中央に赤エイがニンマリとした人間が嗤っているかのような表情で腹を引き裂かれている.猫は魚介類を前にしつつ,毛を逆立て,非常に警戒しているような,怯えているような仕種である.右側には食器類のようなものが置かれているが,こちらはまさに静物画といった具合の硬質感のある物体である.このエイや猫の生々しさと,カキの殻や食器類などの硬質さが1枚に収まった,静物画でありながら,これほどまでにインパクトの強い絵を目の当たりにした審査員たちは,異例の速さで即日でシャルダンを正式な会員として招いたと言われる.


3.2 銀のゴブレット

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シャルダンは空間をも描き出す画家であると評価された.『銀のゴブレット』はそのタイトルどおり,ゴブレットが置かれているが,光沢のあるゴブレットにリンゴの影が映っている.また,ゴブレットの光の反射を受けた影響がまたリンゴにも反射し,ゴブレットの右にある丼みたいな陶器にもリンゴとゴブレットと同様の関係性が見て取れる.したがって,シャルダンは光の反映をうまく描き出すことに秀でた画家であったと言える.

静物画は,画家が描く対象をそこにあれこれ試行錯誤しながら配置し,それを描く.シャルダンはどのように対象を置けば最も光の反映が美しく描けるか研究し,最終的にこのような配置で描いた.その結果,このような作品が生み出された.単に「うまく描ければ良い」というだけでなく,「どのような配置にすればより美しく描けるか」を極めて作品を作り出していたのである.


3.3 オリーブの瓶詰

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ディドロの批評として,オリーブの瓶詰について,放送の中で次のような翻訳文が読み上げられて紹介されていた.

彼(シャルダン)こそは画家であり,彼こそが色彩画家である.ここに描かれているのは「自然」そのものである.そして彼こそが色彩の調和と反映というものを非常によく理解している画家である.おおシャルダンよ.あなたが描いているのは白い絵の具や黒い絵の具などではなく,ものの実質そのものである.

絵に近付いてみたまえ.そうすると,すべては混ざり合い,平たくなってゆき,そして消え去ってしまう.絵から遠ざかってみたまえ.そうすると,すべてが創造され,再び生み出されていく.

近付きすぎると輪郭がぼやけて何が描かれているかはっきりわからなくなるが,適度な距離から見ると「これは瓶だ」などのように判別できるようになる.ディドロの考える「自然の模倣(ミーメーシス)」は,写真のような正確なコピーではなく,むしろこの絵のように,近付くと細部がぼやけてしまうようなものの中に本来の模倣があると考えていたようである.本来の模倣とは,ものそれ自体,自然の本質それ自体が表現されていてこそ「本来の模倣」である.

このような手法は後にモネなどにより確立された「印象派」につながる部分がある.シャルダンは,軽やかさや優美さが流行していたロココ最盛期の中にあって,実に質実剛健な作品を,実に的確な表現手法で制作していたが,その作品は「印象派」の技法を先取りしていたような画家である.


3.4 買い物帰りの女中

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一般市民の女性が買い物を終えてふっと一息ついてやれやれという感じの表情が表現された風俗画である.「ふうやれやれ」という疲労感は見えるものの,そのような日常生活の中での充実感や幸福感を,この女性が感じ取っていることがなんとなしに伝わってくる.そのような作品である.

この作品は大変に評価され,油絵でありながらも実は3枚もほとんど同じ絵が存在している.ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿とカナダ国立美術館にも所蔵されているが,ルーヴルにあるものが原図ではないかと推測されている.ここで注意すべきは同じ絵だから2枚目以降は単なるコピーに過ぎず質が劣っているということはない,ということである.以前描いたものとほぼ同じ絵が描けるだけの技量もあったし,もし同じ絵を描くことで質が落ちるというならば,舞台公演などで同じ演劇を繰り返す役者はどんどん質が落ちていくということになろう.当時はこのように「この絵は大変素晴らしいのでぜひ自分にも描いてほしい」という要望を受けて殆ど同じような作品を何枚も描くということは特殊なことではなかったとのこと.宗教画でも歴史画でもない静物画,風俗画を描くシャルダンが,当時においてもいかに評価されていたかということが窺える根拠である.


3.5 シャルダンの自画像

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シャルダンの自画像.これもまさに職人肌の芸術家の質実剛健さが現れている作品と言うべき,当時のロココの軽やかさや優美さなどというものとはかけ離れている.また,当然,アート気取りの奇抜な人間でもない.真摯に作品に魂を込めて制作をしていたことがこの自画像からも窺える.


4.まとめ

以上,非常にさらっとロココ芸術,ディドロ,シャルダンについてとても軽く述べた.本当は1つ1つの作品について,もっと細かいところまであれはこれを表しているとか,これまでの流れからこういう作品がつくられるに至った経緯があるとか,そういうことを知らねば作品の本質は理解できないように思うが,とにかく芸術は自然をミーメーシスしたものであり,シャルダンはそれを的確に捉えて表現した画家であり,ディドロはそれを見抜いて彼を高く評価したのだということがお分かり頂けたかと思う.

私自身はまだまだ知識もなく,見る目もなく,わからないことが多いのであるが,芸術が自然のミーメーシスであるという考え方は理解できる(つもりでいる)し,描きこまないことによって見えてくる美術表現の高度な技法があるのだということがなんとなく理解できたような気がする.

また,プラトン的な超越的な世界に本質があるという考え方よりはアリストテレス的な,本質は物質やこの世界の中に内在しているという考えにどことなく親近感を抱くので,古代ギリシャの時代から続いている「ミーメーシス」についてはもう少し詳細に勉強した方が良いのかもしれないと思う.

今回取り上げた西欧の芸術作品は,見た感じで少なくとも「この絵はこれを描いている」というのは理解できるが,現代アートの世界に入ってくると「これって本当にアートなの?」と戸惑ってしまうような面がある.そういうところで,何か奇術的なもののまやかしに負けているような感じもしつつ,本当に現代社会をミーメーシスしている芸術作品であるのか,または自称芸術家が遊び半分でおもしろおかしく遊んでいるだけなのか,その辺のところの見分けが付けられるようになれば良いかなと思う.

 

以上,ディドロのシャルダン評を主軸に記事を書いたつもりが,またいろいろ内容があちこちに脱線してまとまりのない記事になったが,ひとまずこれで今回のメモを終わりとする.


*1:放送ではこのようなロマネスクはプラトン的な超越性,ゴシックはアリストテレス的な内在性を表しているのだというまとめ方だったが,ちょっと強引なまとめ方にも思える.プラトンアリストテレスが偉大だったということは事実のようだが,やはり宗教の偉大さをアピールしたい教会側の設計思想と構造的な要因からこのように建築様式が変化していったのではないのだろうか…?教会堂を高く高くしていくには,ロマネスク風のアーチ式の天井だと構造物の自重が大きく,自ずと高さに構造上の限界があった.そのため,尖塔のような形状に移り変わっていったという構造的な要因が考えられる.

*2:ミケランジェロダヴィデ像も裸体だし,裸体であることに神聖さがあるという考え方があったのは確からしいと思うが,一方で己の性欲のために寝室に飾るために絵画を注文する富豪もいたとのことなので,単純に神聖さだけのために女性の裸体が描かれたというわけでもないと思われる.個人的にはこういう西洋絵画の裸体より,もっとアニメ的,漫画的なやつの方が興奮するんだけど.でもそれはここではどうでもいい話なので割愛する.

*3:肖像画というものは,本人に似ているかどうかだけでなく,このように周囲にどんなものが配置されているかという点も非常に重要な要素である.何を着ているか,持っているか,見ているかなど,顔が似ているかどうかだけでなく作品全体を見て総合的に評価が下される.