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SWITCHインタビュー 達人達(たち)「畠山重篤×宮崎学」を視聴した

適当にTVをつけてたら興味深い内容だったので,途中からだったけど視聴.再放送予定もあるので録画予約設定しておいた.

 

再放送予定:Eテレ 10月15日(木)0:00~1:00(10月14日24:00~25:00)

番組内容
「森は海の恋人」運動を続けてきた“気仙沼の父”と、野生動物の驚異の生態をとらえる“自然界の報道写真家”。山の賢人と海の賢人がいま日本人に伝えるメッセージとは。

東日本大震災後「十年は死の海だろう」と覚悟した漁師たちは、わずか数か月で海が驚異の回復力を見せるのを目の当たりにした。プランクトンが繁殖し震災前よりはるかにカキの生育状態がよくなったのだ。千年に1度の津波を通して海の力、それを支える森の力を実感した漁師と、日本全国の山をくまなく歩き、動物たちの生と死、森と人間社会との関係を見つめてきた写真家。常識や想像をはるかに上回る、「自然と人間」をめぐる対話。

 

以上,番組HPからコピペ → SWITCHインタビュー 達人達(たち) - NHK

 

 

何が私にとって興味深い内容だったかというと,番組の中のこの2人(畠山重篤宮崎学)の対話の内容が,最近自分の頭の中で考えていることとかなり一致していて,それを写真等を通して見せてくれたというところ.

最近なんとなく考えているのは,人間だって地球で生命活動をしている動物の一種に過ぎないのに,どこか人間たちは自分たちを自然とは違う,その辺の動物とはかけ離れた存在であるかのように錯覚している節があるなーってことだとか,それを踏まえてどう生きていくべきかとか,そんな内容について思考していることがある.

この番組は,漁師が山に木を植えるだとか,人間のつくった道を動物も歩くだとか,「死」は新たな「生」につながるだとか,そんな話をふくらませたような内容だった.内容について全部書きたいが,自分の理解力のなさと文章力のなさと面倒くさがりな性格に自信があるのでこの辺で止めておいて気になった人はぜひ番組をご覧になっていただきたい.

 

人間活動のせいで餌が減ったせいで猪や熊が山からおりてきて農作物を荒らすという記事を時折見かけるが,この番組を見るとそれがいかに自然なことであるか,もともと熊や狸や猪や,その他いろんな動物が身近な存在であったかがわかる.百聞は一見にしかずとはよく言ったもので「その辺の道を普通に歩いてますよ」という,長年野生動物の写真を撮り続けた人の言葉と実際のその写真を見せられると,なるほど確かにそうだなと思う.

「人は木に生かされている」というような内容のことも語られていたと思うけど,私はそうでなく,うまく言えないが,「宇宙のシステムとしてそのようにうまく組み込まれている」ように思っているのだが,なんとなく自分の思想と近いものを感じることができた.

 

 

良い機会なので,ちょっとだけ私の妄想を綴ってみる.

 

人間もその辺の石ころと同じ宇宙のなかの一存在であり,自然の一部である.地球誕生後,生命が産まれるわけだが,生命の起源は謎に包まれている.無から自然に生命が誕生した説もあれば,隕石によりもたらされた物質から生命が誕生したという説もある.後者の方が有力らしいが,しかし後者にしても,そもそもその存在はどういう風に生まれたのか未知のままである.結局は宇宙誕生後,どうにかこうにかして生命の素となる物質が生成されなければならないのは地球だろうがどっかから降ってきた隕石だろうが同じことのように思う.

話を地球に戻すと,地球に生まれた生命は様々な形にそれぞれ進化を遂げていき,環境に適応しながら現在のような生態系になっている.人間も自然の一種に過ぎないので,例えば産業革命以来,人間は自分たちだけが自然をコントロールできるような錯覚に陥っているような節が見受けられるし,「共存している」という感覚を失いかけているように感じる(自分だけがそう感じているだけなのかもしれない).

たとえば「人間は感情の生き物だから」などとという馬鹿げた言い回しをこれまで何度も耳にしたことがあるが,人間にしか感情がないと考えている愚者の発言であろう.自然界の会話が人間に理解できないだけで,「腹が減った」だとか「眠い」だとか「食われるのは嫌だ」だとか「人間に見つかると面倒くさいことになるから目立たないあの辺に営巣しよう」というのは感情なしには成立しない行為である.それは感情じゃなくて本能じゃないかと言われそうだが,感情と本能,どこでどう境界線を引けるか,きっちり正確に解答できる人間は恐らくいないのではなかろうか.

最近よく聞く「地球温暖化」だとか「異常気象」という単語も,観測を始めて100年たつかどうかというところで,地球に大気が形成されて40億年以上のなかでのたった100年程度の観測結果から何をもって「異常」と判断するのか,いかに時間的スケールを斟酌していない意味の薄い考察から生まれた発想であるかと思う.

人間も自然界の一部であるので産業革命以降,森林を伐採したり,工場建設・稼働に伴い人体にすら有毒な成分をまき散らして自分たちで勝手に苦しんでいたりするわけだが,それも自然の活動の中の一つであると思うし,原発事故に関しても,それに適応して今後も生命の連鎖は地球ある限り,それこそ環境にあわせた形で進化を遂げた生命が誕生し,新たな時代へと移り変わっていく.それが自然の営みなのではないかと考えている.「原発再稼働反対!」などと言っているが,再稼働を即中断しても廃炉作業するにしてもどうするの?とか,デモ活動してる人たちはなんとなくイメージだけで考えてて,その辺の今後の問題のことについては深く考えてなさそうだし,「今どうするか」だけでなく「将来的にどういう風になるか,もっともっと長い期間」で考える必要があろうと思う.それには原発も再稼働し,運転管理業務に習熟した人材確保も必要だし,技術の継承がなされていなければ代替エネルギーができたところで肝心の廃炉が進まなければまた津波がきたら大事故につながるのは一緒じゃん?って気がする.拒否反応だけが先走って先の先のことを考えてない人たちの多さが窺える.原発を作って結果,事故っていろんな方面に経済的社会的混乱が生じているが,それは人間だけでなく他の動植物も同じで,それにうまく順応することが今後の人間を含めた生態系の進化につながることと考える.

話が原発問題やら核問題に逸れたが,宗教感の違いやら貧富の差,戦争・民族間の争い・内紛についても同様のことが言えると考える.自然界の一部である人類が,自然活動の一環として同種族で争っているだけで,それは自然界の活動の一端に過ぎず,これにどう適応していくかが今後の地球全体を含めた自然環境の進化に影響を与えるだけで,寒冷期や温暖期を周期的に繰り返してその都度進化を遂げてきた生命全体の活動と基本的には同様な流れになるのではないかと個人的に妄想している次第である.先述のとおり人間は他の動植物にくらべて知能が高等であるという私からすれば誤ったものの見方であるが,現在のところ,特に人間にとってはどういう方策が最良かが課題視されているように思う.これを地球全体,ひいては宇宙全体でどうあるべきか,非常に長い時間的スケールをもって対処することが求められているのではないかと感じている.

 

なんだかまだ自分の中でも思考がまとまっていないので文章もまとまりがなくなってしまったが,最も言いたいのは「人間も自然の中の一部に過ぎない」という点である.これが徹底的に欠けているいるなと感じているので,これをどうにか認識を改めないとまた戦争やら大規模な自然災害が起きた際に,人間の各個人の思想の持ち方として,私の立場からすると誤った認識で行動されてしまうのではないかと勝手に危惧している.

番組の中で「人の心に木を植えることが必要」と語られていたが,まさにその通りだと思った次第である.

 

話は飛ぶが,『獣の奏者 完結編』の中で,主人公エリンが息子ジェシに対して語るシーンがあるが,そこから非常に私の思考に大きな影響を与えている一節があるので一部引用してご紹介したい.(途中はある程度端折っています)

 

エリン「たとえば,この木は花をつけたあとに小さな甘い実がなるのよ.鳥が大好きな実でね,鳥たちは盛んについばんで,ごっくんって種ごとのみ込んでしまうの.そうするのと,種は,どうなると思う?」
ジェシ「糞になって,出ちゃう!糞,糞~!」
エリン「あなたたちチビさんは,どうしてそんなにも糞が好きなのかしらねえ.でも正解よ.」
ジェシ「なんで?糞になったら,この木にいいことはないじゃん」
エリン「とんでもない!糞に包まれて種が地面に落ちれば,肥料の中にいるようなものだもの.種はちゃんと芽を出して,大きくなれるわ.この木は鳥に自分の子どもたちを運ばせて,あちらこちらで芽を出し,育つようにしているのよ.」
ジェシ「うっへ~!頭いいっ!」
そう言ってからふっとジェシは黙り込んでしまった.唇をかんで,あたりの木々を眺めている.
エリン「どうしたの?」
ジェシ「う・・・ん」ジェシは顔をくもらせたまま,つぶやいた.「なんか,ちょっと気持ち悪くなっちゃった.ぼく,木って,何も考えてないんだと思ってたけど,そんなことしてるって思うと,なんか・・・怖い気がする」
エリン「お母さんも,あたなと同じぐらいのときおんなじことを考えたわ」
ジェシ「ほんと?」
エリン「ええ.木も,虫も,鳥も,獣も,わたしが思い込んでいるのとは,ずいぶんちがうのかもしれないって.考えたり,しゃべったりしないはずの木が,どうして,鳥を寄せて種を運ばせたり,虫を寄せて自分を守ったりするのか.それは偶然なのか,それとも木がそういうふうにしているのか,そうだとしたらどうやって・・・?」


以上,『獣の奏者』からの一部引用でした.この後,この辺の謎について,エリンは全てのことを知りたいと考えていたが,あまりに世界は広く,それに対して人の一生は短く,自分一人で全てを知り尽くすのは不可能だということに気付き,その後,どういう人生を歩んでいくか,自分なりに考えたことを息子ジェシに語るのである.具体的には「松明の火をいろんな人に移していくことで広い世界が明るく見えてくる」という内容のことが描かれている.このあたりのシーンを,私は気が付くと月に2~3回ぐらい読み直して,自分も本来はこういうことに興味を持っていたのかなと思い返すことを繰り返しては,エリンさん並みの境地にたどり着くにしても道は相当に長く,それに対して人の一生は非常に短く,能力もまばらな中で,しかしその中で自分には何ができるか,人間とはどうあるべきかとかについて思いめぐらせることがある.人生の道標として,この一節は非常に私にとって影響を及ぼしているなと思う.自分でどこまでのことができるかわからないけど,いろいろ考えて,できることから小さくてもいいからはじめてみようかな,という気がしてくる.

 

話がそれまくってまとまりのない記事になっていまったが,それでは今日はこの辺で.以上の個人的な妄想について何か感想・反論等ございましたら遠慮なくご意見を承りたいと考えていますので何か良い哲学的な考え方があればご教授願いたいと思います.よろしくお願いします.